あー
急にブログ書いている自分が恥ずかしくなりすぎてきてやばい助けてください全部消したいけどそういう恥ずかしさを内包してブログを始めたはずなのに…
という内容を書くと恥ずかしさがいくらか和らぐというライフハックです(↑のさらに30分後ぐらいに追加してる)
嫌なことは文章するとか人に言うとかすると大体ちっぽけなことに思えてきて落ち着いてくる
時間が経過することで衝動もおさまってくることも理由かもしれない
私が今人生に行き詰まっているのも数は少ないにしろ平凡な悩みで(私の学科には私以外こんなんなってるのは知りませんが…)あるあるの枠にギリ収まると思うとまだ人生を諦めるには早いと思えてきます(あるある〜)
二留してる人なんてたくさんいるし(うちの大学にはほぼいないけど)卒業できれば何の問題もないんですよね、ただそれが今の自分にとってなぜかめちゃくちゃ難しくなってしまっているのですがはあはあ
卒業しなくても大学中退の人もそもそも高卒の人も中卒の人も世の中にはたくさんいるし、親にお金の面で申し訳ないけど絶望するには早いのでしょう、こんな感じの文章アボカドと生ハムにも書いた気がする、自己暗示です
私自身の意思としてはめちゃくちゃ大学卒業したいのに頭と体がついていかないというか、足並みが揃ってない感覚がありますねだからこの一年ずっと直前になってお気持ちが終わってます、卒業したい気持ちはあるしバイトや生活はできてるから大学もまあもういけるだろうと思ってるのにいざその時になると無理すぎて無理になってしまうんですね
でも大学卒業したい、私は頑固なのでその意思だけはあるしなんかほんとに今卒業して働いてないのが不思議でしょうがない
中学の時友達に私は絶対将来鬱病になるから〜と話していて(友達も衝撃的で覚えてたらしい)予想では就活中か働いてる途中だったんですが、予想より少し早めかつ重めな気がしてます
大学は友達いるからなんだかんだいけると思ってたんだけどなあ一年休学したあとも友達いないと思ってたけどできたしこうなってくると本当に自分の心の問題になってきて終わってくる
わからないどうして私は大学卒業にこんなに時間がかかっていますか?
今までできなかったことはたくさんあるけどできることもないことはなくてそれなりに毎日歩んできたはずなのに急に前が見えなくなってしまった、しそれが2年も続いていて困る
また中学の話になりますが、中1で初めて受けたクレペリンテストみたいなもので適職:ナチュラリスト、保育士、カウンセラーと出たんですね
中1のときはナチュラリストってw私ってまじ社会向いてないじゃんwお金稼がせる気ある?wって感じだったけど(高校卒業までは単芝アンチだったので笑派でした少しのフィクションも読みやすい文章には必要なのかもしれない)今になって事の重大さに気づくというか伏線回収されちゃった…ウワ…になっています
逆に言うとそんな現代資本主義社会日本に合わないのによく20年間生きてこれたなと自分を労ってやりたい気持ちにもなりますそういえば体調崩す半年ぐらい前ずっと資本主義について異論を唱えていたなあ
2年ぐらい…休んでも…いいのかもしれない…これは甘えですか?さすがに今年度無理だったら大学辞めるかあ逆に来年4月まで伸ばすかあの気持ちになってる目標を達成するために頑張りたいという意思だけはある、あります…そう見えないかもしれないけど…
大学卒業したい理由としてはシンプルに大卒という資格がほしいというのと(これは別にいらないのかもしれない資本主義苦手な事を思い出したので)たぶん大きくは自分が大学卒業できないという事実を受け入れてないからかもしれないだってそれまで平凡に暮らしていたのに単位だって余裕であるのにどうしてあと半年のためにこんなに足掻いているのだというここで辞めたら大切な何かを失いそうだという危機感
私がどうして大学を卒業できないのか一緒に考えてくれる方募集してます^_^はあはあはあ
辛いときは楽しいお料理を…
自己肯定感を高める手段として私に一番合っているのは料理だと思う。
一人暮らしを一年半していたとき、毎日お弁当を持っていってたし夜ご飯もほぼ自炊をしていました。友達と食事する以外でコンビニ弁当や買い食いはほとんどしなかった気がする。
料理のいいところ(ブログの機能を使ってみたかっただけ)
- お腹が満たされる
- 趣味になる
お腹が満たされる、シンプルですが一番大切なことですね。5玉180円の冷凍うどんと生卵、納豆にごま油としょうゆをかけたもので私の体はできています。こんなの料理じゃないと言われてしまうかもしれませんが疲れて帰った日や一日中暇な日のお昼ご飯はこれぐらいで十分です。
一人暮らしのときは、朝起きられないので全部休日に作り置きして小分けにしたものを冷凍させて前の日の晩にお弁当箱(タッパー)に詰めていました。朝起きられないので。作り置きもほうれん草をレンジでチンしてゴマとめんつゆで和えただけとか味玉とか簡単なものばっかりだったけど安いしおいしいしいいんです…
趣味になる、書いてみたけど趣味というにはクオリティとか手間をかけてなさすぎるなと思い始めてきた。趣味になるというか時間が潰せるというのがでかい。料理を作っている間は料理に没頭できるので他のことを考えずに済むし。料理が趣味というと語弊がある気がしてきたけど一応レシピを見れば何でも作れるしたまーにお菓子を作るのも楽しい。
たぶんこれ生活のために自炊をしてる人あるあるだと思うんですが、得意料理は?と聞かれてもパッと思いつかない、という悩みを解決しようと、最近は酢豚と親子丼と答えるようにしています。どっちもすぐできておいしい。栄養もあるしご飯もすすむのでおすすめです。やろうと思えばレンジでもできるし。
料理普段作らない人は変に野菜炒めとか作るより煮込み料理を作った方がいいと思う。分量間違えなければ一生煮込んでれば柔らかくおいしくなるし。逆に炒め物系は火加減が難しいので失敗する確率が高いと思います。(誰だよ)
料理の話すると伝えたいことがたくさん出てくるのでやっぱり料理好きかもしれない。趣味、料理です。
一人暮らしのときは料理を作ってる間になぜかお腹いっぱいになってきてしまって作っても結局あまり食べずに次の日のお弁当に回すみたいなことがよくあった気がする。だから友達とか来てくれた日は張り切って料理してた。食べてくれるのがうれしくて
なんか手料理を振る舞うイコール好きみたいな風潮がありますが私はそれよくわからなくて、自分が楽しいから料理を作っているだけで〇〇のために♡みたいなのはあまり思ったことはありません。まあでも自分の作ったものをおいしそうに食べてくれるのはめちゃくちゃありがたい。
私的に料理のいいところは少ない手間で7割は満足度をマークしてくれるところかなと思います。冒頭で紹介した卵かけ納豆うどんは最たる例で、レンジだけで5分もかからずできるし材料費も100円程度なのにめちゃくちゃおいしい。栄養あるし。こういうのは自炊の醍醐味だなと思います。
ちょっと手間のかかる料理も週二、三回なら苦にならないし適当なお店で食べるより安くておいしいし…
私は手芸とか絵書くのとかも好きだけどそれこそ趣味にさえならないような出来にしかならなくて、自分の創作意欲を満たすめちゃくちゃちょうどいい行為が料理なのかもしれません。服とか作りたいけど時間がかかるし手間と費用に比べて成果物がしょぼい。主にずぼらな自分のせいですが…創作意欲はあるくせに何事も得意ではなくて、打率7割を常に出せるのが料理しかない、そんなところです。
料理は例えにんじんの細切りの太さがばらばらでも食べちゃえば気にならないし、味付けを後から直すこともできるし、食べちゃえば同じ!みたいなところが懐の深さを感じますよね。
最近私はどうすれば平野レミになれるか考えています。でもたぶん考えても平野レミにはなれないし、平野レミのレシピは作ったことがない。料理愛好家、私もその気持ちです。
最後にこの曲で締めましょう。さようならhttps://youtu.be/AdVcYWadd_4
東京
今まで生きてきた中で自分にできなかったことはたくさんある、当たり前か
走るのが苦手だから幼稚園の時から鬼ごっこはしたくなかったし今でも二重跳びも逆上がりもできない、川で水切りをしようとしたら手の中で石を回すことさえできなくて笑われました
ブログ始めたし小説は子供の頃から好きだから素敵な文章書いてみたいけどそんなの書けなくて乱文散文私の気持ちぐらいばらばらしてます気持ちがばらばらしてるから言葉もばらばらなのか
思えば子どものときからインプットは得意だけどアウトプットは苦手だったな、読書は好きなのに読書感想文は本当に書く気になれなかったし夏休みの宿題は作文が苦手だったので短くていいからという理由で詩にしてた
いつまで経ってもうまく話せないし、発声自体苦手みたいなところがある自分の話が面白くなさすぎて悲しくなるし声が小さすぎて誰にも話を聞いてもらえないというと今まで話を聞いてくれた人に失礼ですね、ごめんね
勉強、はちょっとできたけど小学校低学年までは喋れなさすぎて親にも発達が遅れてるんじゃないかと思われてた、っていうのを中学生ぐらいに知った実際何かあるのかもしれない大学卒業できないし
客観的にも主観的にも成功したと言えるのって本当に高校受験しかないのかもしれない、でも高校も周りが行かせたかっただけで自分には今考えると全然合ってなかったな、悲しい、この事実は考えないようにしていたけどやっぱり合ってなかったよな絶対、まあめちゃくちゃ好きな友達ができたことだけでもお釣りが出てくるかもしれない
誰にも評価されることがなければこういう風に自発的に文章(とは言わないかもしれない)、言葉を発することができる、誰にもーって言うけど知り合いに5人ぐらいブログ始めたって言ったからそれは嘘でちょっとした反応をくれたらうれしい、クソ暗くていいなwwwぐらいでいいんだけどねキモいわ普通にとかでもいい
あー今日は16時から24時まで寝ました今は2時半、こんな寝たのに少しの眠気を感じながら布団の中でブログを書いています
自分の傾向として、断定するのが苦手かもしれない、という断定避け断定するのが得意でないので点ばかり打って丸さえなんとなく避けている。
なんか書きたいことたくさんある気がするのに何もうまく書けないしたぶんこれはメモ帳、そもそも下書きなしできちんとした文章なんて書けないんだよねきっと、すごい人は初手で完璧なものをできると思っているし自分はそれじゃないからだめだと思っているこういうところも自分のだめなところです南無
あーできないところがあるという話題から東京に行けない話を書きたかったのを思い出しましたが眠いのでもう寝ます
mother tongue
人生が停滞している、人生を歩んでいる感じがしない、人生が止まっている
連絡をことごとく無視していたアルバイト先から電話がかかってきた。山籠り説が出てたらしい心配させてしまった申し訳ないなほんとに
オタクでいると本名や普段の生活、バックグラウンドなどあまり関係なく楽しめる
私は地方に住んでいるのでほぼ毎回遠征なのも非日常だし遠征すれば顔見知りもいない
この人生が止まっている感じ、もしかしたら漢字本名で生きることに疲れてしまったのかもしれない。漢字本名の自分では想像もしなかった無職生活、罪悪感焦燥感とともにモラトリアムすぎて自分の人生を生きている感覚がない。私が漢字本名の人生に戻れる日は来るのだろうか、それを望んでいるのかもわからないが
散歩道
私は恵まれている
“本当に無理なときは逃げてもいいんだよ”の本当とはなんなんだろう、具体的な定義は、
私は恵まれている
まあ本当に無理だったから大学を休学したし、本当に無理だったから復学後の後期を全く通えずに留年してしまったし、本当に無理だったから大学の待つ地元に戻るバスに乗れずに見送ってしまったのだろう
でも私は恵まれているので
床に臥せっているときも心配して連絡をくれる友達がいるし両親は結局休学を許してくれたし今のわけのわからない時間の過ごし方もほぼ何も言わずにいる
私は恵まれている
憂鬱な気分を忘れさせてくれる趣味があるし推しメンはかわいいし推しが武道館に立ってくれたしそれなのに誰も死んでない
私は恵まれている
鬱がやばいときに当欠ばかりしていたのに元気になったらたくさん入ってくれればいいよと言ってくれるバイト先があるし今はその恩を仇で返すようにシフト確認のラインを無視し続けているし
私は恵まれている
気性が穏やかなので鬱がやばいときもただ動けなくなるだけで自殺未遂とかしなかったし今はそれなりに元気でバイトオタク活動家事ぐらいはできているし
私は恵まれているのに
のにな、どうしてこんな停滞しているのだろうか←これを考え続けていると、病みます(笑)
私は恵まれている
この一応学生という身分の定住所無職、横文字にするとフリーター、あとから振り返ったら楽だったと思うのだろうか激務で今にも倒れそうな人には現状に甘えてるように映るだろう甘え甘え精神疾患は甘えです
私は恵まれている
センター二週間前に謎のウイルスにかかって五日間高熱が出続けたけどCランクぐらいの大学にそこそこ余裕で入れたしゼミも優秀なところに所属できたし、大学、普通にストレートで卒業できると思ってたし、どうしてあと半年で卒業の今になって登校拒否してるのかわけわからないし
私は恵まれている
“そんなふうに求めてばっかりじゃ タマシイも枯れちゃうわ” お気に入りの曲の歌詞に共感できる心の余裕があるしJUDY AND MARYは本当にすごい私もバンドで世間を席巻したい別にしたくはないけど
私は恵まれている
こうやって気持ちを書き殴っていたら落ち着いてきて全てどうでもよくなってくるし気性が穏やかでよかった私じゃなかったらこの感情を持て余して発狂してバスジャック事件とか起こしていたかもしれない
私は恵まれている
だからどうにかしてどうにかこうにかねどうにか何かしら一歩踏み出さないといけないそれが過去の自分にとって不本意なものであっても許容して噛み砕くたぶん絶望するにはまだ早すぎるし側から見たらね
繊細さんなので周りに与える影響とかを考えてしまって無理やり前向きな感じで文章を締める傾向がある
頭の中をそのまま言語化するのは難しい、自我に邪魔をされるけど自分にとっても激鬱なのよりはそっちの方がいいのかもしれない
どちらの気持ちも嘘ではないし
玄関
ベッドで眠れずにいるとどうしようもなくなってくる。
逃げ場のないあの感じ、ベッドは休息の場だというのにそこにいる時間が長すぎて夜に眠れなくなってしまった。
居心地のいい場所を探して家の中をうろつく。ねこに気づかれた。なでていると少し落ち着いてくる。
そして私は玄関にたどり着いた。玄関マットをまくらにして横になると、ひんやりとした床が気持ちいい。
明日は何をしようかな、何も予定ないや
数十分眠ると寒さで目が覚めた。またベッドに戻る。
私の代わりにねこが眠っている。
ねこみたいな生活だな、
朝起きるとねこは隣にいなかった。
夜眠れないのは朝起きるのが遅いからだといわれる。一日中動いた日でも夜眠れないこともある。それに夜眠れないから朝起きられないのだとも思う。私の自律神経はいつになったら正常に動いてくれるのか。
ねこは寝てばかりだし引きこもりなのに元気そうだ。
毎日が行き止まりのような生活の中で睡眠は出口にならない。私はまた玄関で横になる。
アボカドと生ハム
2021年は確かにアボカドと生ハムに命を救われた年だった。
ネット上に多くいる人間と同じように私は精神を病みやすい。この時代にブログを始めてしまうなんて斜構すぎる、noteにすればいいのにはてブロ、斜構すぎる。
ネット上に多くいる人間と同じように生きづらさを抱えており、ネガティブな感情で頭が爆発しそうなときもある。一般的斜構オタクくんである。
ネット上にいる多くいる人間と同じように鬱病を発症し、2021年前半はほぼ引きこもり生活であった。
今思えば全く体に合っていなかった抗うつ薬を飲み続け、副作用の浮遊性めまいで動けなくなり食欲もなくなった。体重も8キロほど落ち、久しぶりに会う人に心配されるほどであった。
そのとき唯一自発的に食べたいと思えたのがアボカドと生ハム。たっぷりのオリーブオイルと黒胡椒、少しのしょうゆをかけてカルパッチョ風に食べるのがお気に入り。
昔読んだ重松清の小説で、死にそうな人間は輪郭が薄くなる、と書いてあった。その頃の私は確かに輪郭が薄かった。気力がなくもはや自ら死ぬことも諦めていて毎日をこれまでの生気貯金(なんですかそれ?)でなんとか過ごしている状態だった。
どうやって普通に生活できるまで復活したかといえば、諦めなのかもしれない。自分のハードルを自分で下げていく。
小さい頃から無駄な完璧主義かつ斜構ゆえ精神的疲労が絶えなかったように思う。オタクくんなので体力もないことも相まって、完全に電池が切れてしまった。
ということで2021年は人生を休み、2022年は人生に復帰しようと思ったのだが、半年で疲れてしまいまた人生を休憩してしまっている。なんだかもう人生をどう歩んでいたのかわからなくなって全て放棄してしまいたくなる。終わっています。
自分はこんな人生を予想していたか?、もっと頑張っていたらこんなことにはならなかったのでは?、たらればよりも粘度の高い呪縛に苦しめられている。
前述した復活の決め手は諦め、に矛盾するがごとく自分の理想の人生を諦め切れずにいる。哀れですね。その努力もしないできないのに。
というのが2023年4月頭(今も頭ではあるが)までの話。今はなんだか急に自分の人生へのポジティブな諦めが心の中に芽生えた気がする。どうにかなるだろみたいなね。これはきっと数日後にはまたネガティブな自分に戻るのだろうが今は比較的ポジティブなのでブログなんか書きたくなってしまって現在に至る。
精神疾患には自分を俯瞰して見ることが大切だと思う。自分は自分の外を出られないのだから(自分から見た)かっこ付きの俯瞰でしかないのだが、悲観で心が埋められているときはそれができないので。
私の人生は2020年2月から止まっている気がしているが、それは私の間違いで人生も時間も止まったりしない。きらきら輝いていた(ように見える)あのときでも実際は病まないことはなかったし、完全に動けなかったあのときもアボカドと生ハムはおいしかったし。自分を肯定する、完璧主義者は自分が大好きだからなるのにどうしてこんなに難しいのでしょうね。
あーあ今日も人生でした、明日も人生なのでしょう。